二子玉川の川面に、夏の光が跳ねていた。
水際に立つ小さな男の子が、両手を広げてバランスをとりながら、石から石へと渡っていく。そのすぐ横に、一人の男が立っていた。声をかけるでもなく、手を貸すでもなく、ただそこにいる。転びそうになるたびに、男の大きな手がそっと背後に伸びる。触れるか触れないかの距離で、子どもの動きを見守っていた。
それが、私の父の姿だった。
どんな言葉を交わしたのか、今となってはまったく覚えていない。父が何を考えていたのかも、わからない。ただ、あの日の川の冷たさと、石の感触と、横に父がいたという事実だけが、記憶の中に静かに残っている。
思えば、父との思い出のほとんどが、そういうものだった。場所は覚えている。父がそこにいたことも覚えている。けれど、会話の中身が出てこない。父の声が、記憶の中から抜け落ちてしまっている。
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父との一番古い記憶は、二子玉川での川遊びだ。当時、その近くには二子玉川園という遊園地があり、私が人生で初めて乗ったジェットコースターも、そこにあった。
自宅から二子玉川駅まで、徒歩と電車を乗り継いで約45分。自由が丘で東急大井町線に乗り換え、ホームにある木製のベンチに並んで腰を下ろして電車を待つ。電車が来ると、私は迷わず先頭車両へと走った。運転席越しに見える線路と、広がっていく景色が好きだった。父は黙って私の横に立ち、ふらつかないよう体を支えていた。
駅の改札を出ると、必ず立ち寄る場所があった。マクドナルドだ。注文するものは毎回同じだった。ハンバーガーとポテト、そしてバニラシェイク。この三つは絶対に外せなかった。何度通ったかは覚えていないが、父が何を頼んでいたか、どんな話をしたのかは、やはり覚えていない。
駒沢公園にも、よく連れて行ってもらった。6歳くらいまでは自宅近くのバスで行き、自転車に乗れるようになってからは、父と二人で自転車を走らせた。自由通りから斜めに入る道を抜け、まずはリス公園へ。それから少し離れたブタ公園へ向かう。ここが私のお気に入りだった。そのあとは園内のサイクリングコースで、二人乗りの自転車を借りて2、3周する。ハンドルのそばについたパフパフ鳴る警笛を、私はことあるごとに鳴らした。
帰り道、バスがなかなか来ないときは、自宅まで歩いた。腹が減ると、途中にある蕎麦屋に入った。自宅と公園のちょうど中間にあるその店は、長い帰り道の定番の休憩場所だった。私がいつも頼むのはざるそばだったが、ある日、父が注文したカレー南蛮そばがあまりにおいしそうで、交換してもらった。生まれて初めて口にしたカレー南蛮そばの味は、今でも体が覚えている。それでも、そのとき父とどんな話をしたかは、記憶にない。
映画にも連れて行ってもらった。目黒駅近くの映画館では東映マンガ祭り、渋谷では「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」、「南極物語」を観た。洋画を初めて観たのも父と一緒だった。「遊星からの物体X」は、始まって30分で席を立った。とにかく怖かった。なぜあの映画を選んだのか、今となっては謎だが、父も慌てて立ち上がったのか、それとも苦笑いをしていたのか、そこも覚えていない。
東急田園都市線の鷺沼駅近くにあったプールでは、一番奥の深いコースで泳ぎ方を教えてもらった。としまえんのプールには、私の同級生数人を引き連れて父が引率してくれたこともあった。そんなことをしてくれる父親は周りにいなかったから、少しだけ誇らしかった。
父と母、そして私の三人で、二か月に一度ほど、父の勤務先に近い西銀座デパートの地下二階にある「ブリッジ」という喫茶店で待ち合わせ、食事に出かけた。あの店には、大人になってからもたまに足を運ぶ。店の様子はずいぶん変わってしまったけれど、どこかに当時の空気が残っているような気がして、つい立ち寄りたくなる。
九州への家族旅行、軽井沢への旅行。こうして並べてみると、父との思い出は決して少なくない。場所も、行った事実も、ちゃんと残っている。ただ、そのどれもに「会話」がない。父が何を言ったか、私が何を答えたか、そこだけがすっぽりと抜け落ちている。
それが、私と父の関係の、最初の形だった。
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父の唯一の趣味は、アユ釣りだった。
シーズンになると、毎週のように川へ出かけた。朝早く家を出て、日が暮れる頃に帰ってくる。帰宅した父は、その日の釣果を誇らしげに見せてくれた。何匹釣れたか、どの川が良かったか、嬉々として話す父の顔は、普段とは少し違って見えた。
釣りのことになると、言葉が増えた。
ただ、私は一緒に行ったことがほとんどない。父のアユ釣りへの情熱は、子どもの私には伝わらなかった。釣りという行為そのものへの興味が、私にはなかった。だから父は、釣りに行くときはいつも一人だった。
そんな父が見せてくれた笑顔を、私は今もはっきりと思い出せる。言葉ではなく、表情として記憶に残っている。父との会話の多くが記憶から消えているのに、その笑顔だけは残っている。不思議なことだと思う。
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しかし、父との思い出には、もう一つの顔があった。
ギャンブルと借金。そして、喧嘩の絶えない家庭。
父はパチンコが好きだった。好きというより、のめり込んでいた。借金を作り、それが家庭の空気を重くした。私が一人で留守番をしているときに、玄関のチャイムが何度も何度も鳴らされたことがある。ドアスコープを覗くと、そこにはいかにもな雰囲気の男が立っていた。足がすくんだ。四つん這いになりながら、家の奥の押し入れに身を隠した。あの恐怖は、子どもだった私の体にそのまま刻み込まれた。
ある日、借金のことで父と母が口論になり、父が母を平手打ちにした。さらに手を上げようとする父を見て、私は我を忘れた。父を力いっぱい殴った。激怒した父は台所へ走り、包丁を手にして私に向けた。その後のことは、よく覚えていない。記憶が、そこで途切れている。
そんな家が嫌で、中学のときには家出をしたこともある。
母からは、物心ついた頃から父の悪口を聞かされて育った。だから私は自然と父を避けるようになり、会話はほとんどなくなった。父がどこに勤めているかは知っていた。しかし、いつからその会社に勤めているのか、どんな仕事をしているのか、そんな話をする機会は一度もなかった。
家にいることが、苦痛でならなかった。
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小学校を卒業してから26歳になるまでの13年間、父との思い出も会話も、まったく覚えていない。父に怒られた記憶もなければ、褒められた記憶もない。同じ屋根の下に暮らしていただけで、父と息子というより、ただの同居人に近かった。
中学に入ると軟式テニス部に入り、部活に明け暮れた。高校に入るとアルバイトと遊びが中心になり、家にいる時間はさらに減っていった。オーストラリアへの留学を経て帰国し、旅行の専門学校に通いながら旅行会社でアルバイトをした。そのままその会社に就職し、25歳まで働いた。
旅行会社を辞めたあとは、昼間は民間救急車の救急隊員として働き、夜は調理師専門学校に通った。多くの高齢者を搬送するうちに、少しずつ父のことが気になり始めた。当時、父は73歳。入院することもあり、老後のことをそろそろ考えなければと思い始めた頃だった。
1999年、ホームヘルパー2級の資格を取得した。介護保険制度が注目されていた時期だった。資格を取ってから、父の体調への関心はさらに強まった。訪問介護の会社に就職し、中野支店の支店長を任された。介護保険制度が始まった平成12年には会社が合併し、激務はさらに増した。父に会いに行けない日も珍しくなかった。
挨拶と、プロ野球の話だけで終わる会話。父も私も、それに慣れてしまっていた。
お互いの「中身」は、何一つ伝え合っていなかった。
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上高地への家族旅行が、転機になった。
健康だけが取り柄だと思っていた父に、異変が見えたのだ。歩ける距離が、目に見えて短くなっていた。あの広い上高地を、父はうまく歩けなかった。私はそのとき初めて、父の老いをはっきりと感じた。
それでも、私はまだどこかで目をそらしていた。父の変化を見ながらも、具体的に何かをしようとは思わなかった。仕事は忙しく、自分の生活もある。父のことを「心配している」という感覚はあったが、それは行動には結びついていなかった。
あの上高地の景色の中で、父がどんな表情をしていたか、私は覚えていない。父が何かを言ったかどうかも、わからない。ただ、歩幅が小さくなっていたこと、歩くのに時間がかかっていたことだけが、記憶に残っている。
川遊びの日と同じだった。父の姿は見えている。でも、言葉がない。
その静かな距離が、父と私の間には、ずっとあった。
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介護とは何か、と問われたとき、多くの人は「世話をすること」と答えるかもしれない。食事を作り、風呂に入れ、薬を飲ませる。そういったことを思い浮かべるだろう。
しかし私が後になって気づいたのは、介護の前にもっと大切なことがあるということだ。
それは、相手を「知っている」かどうか、だ。
何が好きで、何が嫌いか。どんな人生を歩んできたか。何を大切にしてきたか。どんな最期を望んでいるか。そういったことを、介護が始まる前に、どれだけ知っているか。
私は父のことを、ほとんど知らなかった。
アユ釣りが好きだということは知っていた。パチンコにのめり込んでいたことも知っていた。でも、父がどんな思いで生きてきたか、何を喜び、何に傷ついてきたか、私はまったく知らなかった。父の口から、そういう話を聞いたことがなかった。聞こうとしたことも、なかった。
川遊びの日も、映画館の帰り道も、カレー南蛮そばを食べたあの蕎麦屋でも、父は隣にいた。しかし私たちは、互いの「内側」には踏み込まなかった。場所を共有しながら、心の中は別々のままだった。
その溝は、長い年月をかけて、静かに、確実に深まっていった。
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後に、父が亡くなってから、私は父が残した一週間分の日記を読んだ。
そこには、私が生まれる前に亡くなった兄のことが書かれていた。生まれてからわずか一週間しか生きられなかった兄を、父がどれほど心配し、どれほど案じていたか。その一週間分の言葉が、日記の中に残されていた。
私はその日記を読んで、初めて父の「内側」に触れた気がした。
その兄の存在を、私は自分が生まれる前のこととして、ほとんど意識してこなかった。でも父にとって、それはずっと胸の中にある傷だったのかもしれない。日記を読みながら、胸が苦しくなった。
なぜ、もっと早く話を聞かなかったのか。 なぜ、父の言葉に、もっと耳を傾けなかったのか。
川遊びの記憶の中にある父の背中が、そのとき初めて、少しだけ違って見えた。あの背中は、ただ黙っていたのではなく、何かを抱えながら、黙っていたのかもしれない。
介護が始まるまで、私はそのことに気づかなかった。気づこうとしなかった、と言った方が正確かもしれない。
これは、そんな父と息子の物語だ。溝のある家庭で育ち、長い沈黙を重ね、そして介護という現実の中でようやく向き合い始めた、ある家族の記録である。
