平成12年。
その年号を頭の中で反芻するたびに、私はある感覚に気づく。それより前の、父との記憶がほとんどないという事実だ。場所の記憶はある。父がそこにいたという事実もある。しかし「会話」だけが、記憶の中から抜け落ちている。
思春期から社会人になるまでの13年間にいたっては、驚くほど何も残っていない。
父に怒られた記憶もなければ、褒められた記憶もない。父の声が、記憶の中に存在しないのだ。同じ屋根の下に暮らしながら、私たちはまるで別々の時間を生きていた。
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小学校を卒業してから、私の生活の軸は家の外へと移っていった。
中学に入ると軟式テニス部に入り、毎日部活に明け暮れた。高校に上がると今度はアルバイトと遊びが中心になった。家にいる時間が減るほど、気持ちは楽になった。家が息苦しかったからだ。居場所が、外にしかなかった。
高校を出ると、オーストラリアへ留学した。留学させてもらえたのは父と母のおかげだったが、その感謝を父に伝えた記憶はない。帰国後は旅行の専門学校に通いながら、旅行会社でアルバイトをし、そのまま就職した。25歳まで働き、退職した。
仕事を辞めたあと、昼間は民間救急車の救急隊員として働いた。夜は調理師専門学校に通った。昼と夜、二つの顔を持つ生活だった。民間救急の仕事では、多くの高齢者を搬送した。担架を運ぶたびに、その先に家族がいた。泣いている人がいた。呆然としている人がいた。他人の家族のそういう場面を、私は何度も目の当たりにした。
その経験が、少しずつ父への意識を変えていった。当時、父は73歳になっていた。入院することもあり、「そろそろ老後のことを考えなければ」という思いが、ぼんやりと頭の片隅に芽生えていた。
1999年、ホームヘルパー2級の資格を取得した。介護保険制度が世の中で注目されていた頃だ。資格を取ってからは、父の体調が以前より気になるようになった。しかし「気になる」と「向き合う」の間には、大きな距離があった。私はその距離を、なかなか埋められないでいた。
その後、訪問介護を主体とする会社に就職し、中野支店の支店長を任された。介護保険制度が始まった平成12年4月には会社の合併があり、業務はさらに忙しくなった。父との会話どころか、顔を合わせない日もあった。
あいさつと、プロ野球の話。それだけが、父と私をつないでいる細い糸だった。ジャイアンツが勝ったかどうかを確認し合う。その短いやり取りに、私たちは慣れてしまっていた。それ以上を求めることも、踏み込むことも、お互いにしなかった。
今思えば、それは慣れではなく、諦めだったのかもしれない。
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父と私の間に溝が生まれた原因を、一つに絞ることはできない。
ただ、その溝を深くした出来事はある。
父はギャンブルが好きだった。とりわけパチンコへの執着は強く、借金を重ねた。その借金が家庭に影を落とした。母は苦労した。物心ついた頃から、私は母の口から父の悪口を聞かされて育った。父を悪く言う母の言葉が、私の中で父への印象をつくっていった。
私が一人で留守番をしていたある日、玄関のチャイムが鳴り続けた。ドアスコープを覗くと、いかにもな雰囲気の男が立っていた。借金の取り立てだと、子どもながらに直感した。足がすくみ、声も出なかった。四つん這いになりながら廊下を這い、家の奥にある押し入れに身を隠した。息を殺して、チャイムが止むのを待った。
あの押し入れの中の暗さと静けさを、私は今でも体が覚えている。
そんな家が嫌で、中学のときには家出をしたこともあった。どこへ行ったのか、どのくらいの間だったのかは覚えていない。ただ、家を出たという事実だけが残っている。
そしてある日、父と母の口論が頂点に達した。借金のことで言い合いになり、父が母を平手打ちにした。さらに手を上げようとする父を見て、私の中で何かが切れた。気がつけば、私は力いっぱい父を殴っていた。
激怒した父は台所へ走り、包丁を取り出した。その切っ先が、私に向けられた。
その後のことは、よく覚えていない。記憶が、そこで途切れている。
人は、耐えられないものを記憶から消すことがあるという。あの場面もそうだったのかもしれない。ただ、その出来事以降、私が父を避けるようになったことだけは確かだ。
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父を「嫌いだ」と思っていたのか、と問われれば、正直なところよくわからない。
憎しみに近い感情はあった。恐怖もあった。一方で、川遊びや映画館での記憶も、確かに存在していた。父がそこにいてくれたことへの、説明のしにくい温かさのようなものも。
しかし、それらは互いに交わることなく、私の中でそれぞれ別の引き出しに収まっていた。楽しかった記憶は楽しかった記憶として。怖かった記憶は怖かった記憶として。父という人間を一つにまとめて理解しようとする作業を、私はしてこなかった。する必要を感じていなかった、というほうが正確かもしれない。
父の勤め先がどこかは知っていた。しかし、いつからその会社に勤めているのか、どんな仕事をしているのか、職場でどんな人間関係があるのか、まったく知らなかった。聞いたことがなかった。父のほうも、話してくれたことがなかった。
父にとって、私はどんな存在だったのだろう。
その問いを、私は父が生きている間、一度も真剣に考えたことがなかった。
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平成13年の前半、父の体調はさらに悪化していた。
家に閉じこもり、テレビを見て一日を過ごす。散歩に出ようとせず、外との接点が急速に細くなっていった。唯一、母と口論になったときだけは、気力でパチンコへ出かけていた。要介護状態になってもなお、パチンコだけは別だった。しかし、駅まで歩くことが困難になってからは、それも自然と途絶えた。
一人で釣りに行くこともできなくなっていた。父の生きがいだったアユ釣りのシーズンが来ても、道具に触れることはなかった。家の中に居場所がなく、かといって外にも出られない。父はそういう状態の中に、日々を過ごしていた。
そんな父に変化が訪れたのは、平成13年9月のことだった。
私に子どもが生まれた。父に孫ができたのだ。
その日を境に、父は変わった。これ以上ない言い方をするなら、「仏様のようになった」。それほど劇的な変化だった。何もなくなってしまったように見えた父の毎日に、光が差し込んだ。孫の誕生が、父の人生を塗り替えた。
父との会話が、少しだけ増えた。ただしそれは、私たち自身の話ではなかった。孫、勇輝のことだった。「元気か」「風邪はひいていないか」。父の口を開かせるのは、いつも孫の話だった。
なぜ父がそれほど孫を気にかけるのか、その理由を父の口から直接聞いたことはなかった。しかし、父が亡くなったあとに残された日記を読んで、私はその背景に気づくことになる。私が生まれる前、父と母の間にはもう一人の子がいた。生まれてわずか一週間で亡くなった、私の兄だ。その一週間の日記には、小さな命をひたすら案じ続ける父の言葉が綴られていた。
孫が生まれたとき、父の中に何がよみがえったのか。私には想像することしかできない。しかし日記を読んだとき、胸が苦しくなった。父のそういう部分を、私は生きている間、何一つ知らなかった。
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孫と一緒にいるとき、父は別人のようだった。
体の不調も、意欲の低下も、そのときだけはどこかへ消えた。孫との時間を、一生懸命に生きていた。その姿を見るたびに、私は奇妙な気持ちになった。あの父が、こんなふうに人に向き合えるのか、という驚きと、なぜ私に対してはこうではなかったのかという、言葉にならない感情が、混ざり合っていた。
父と私の間にある溝は、孫の存在によっても埋まらなかった。孫という共通の話題が生まれただけで、父と私が向き合ったわけではなかった。
当時の私は、それで十分だと思っていた。父との関係を修復しようという気持ちは、正直なところ薄かった。あいさつと、プロ野球の話と、孫の近況報告。それだけのやり取りで、父との関係は「維持されている」と思い込んでいた。
思い込んでいた、という表現が正しい。維持されているのではなく、ただ放置されていたのだと、今の私には分かる。
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介護の仕事をしていると、様々な家族を目にする。
仲睦まじく見える家族もあれば、関係がこじれたまま介護が始まってしまった家族もある。後者の場合、介護という行為が、過去の感情を呼び覚ます引き金になることがある。昔の恨み、言えなかった言葉、向き合えなかった時間。それらが、介護の場面で一気に噴き出してくる。
私は仕事でそういう場面を見るたびに、「うちは違う」と思っていた。
しかし、違わなかった。
父との間にあった溝は、介護が始まってから急に深くなったわけではない。長い年月をかけて、静かに、じわじわと深くなってきた溝だった。川遊びの記憶がある幼い頃から、借金取りが来たあの日も、包丁を向けられたあの夜も、家出をした中学生の頃も、挨拶だけを交わし続けた社会人になってからも、溝はずっとそこにあった。
私はその溝を直視することなく、日常の忙しさの中に逃げ込んできた。仕事があった。家族ができた。やるべきことはいくらでもあった。父のことを考える必要が生じたときだけ、渋々それに向き合い、用が済めばまた距離を置いた。
そういう関わり方しか、私にはできなかった。
いや、正確には、そういう関わり方しか、しようとしなかった。
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平成12年。上高地への家族旅行で、父の歩行距離が目に見えて落ちていた。健康だけが取り柄だった父に、老いの影が差し始めた年だった。
それが、第3章以降で語る「介護の始まり」への入口だ。しかしその前に、もう一つだけ伝えておかなければならないことがある。
父と私の間には、溝があった。その溝は私が意識していた以上に、深く、長いものだった。そして、その溝の存在が、のちの介護のすべての場面に影響を与えることになる。
どんな介護をするかは、それまでの関係によって変わる。どんな判断を下すかも、どれだけ相手を「知っているか」によって変わる。知らないままで始まる介護は、知っていれば避けられた後悔を、いくつも生む。
私はそれを、これから身をもって経験することになる。
父の歩幅が、確実に小さくなっていた。そして私たちの間にあった沈黙は、これから先、まったく別の重さを持ち始めることになる。
