第7章 限界の夜

今まで誰にも言わなかったことがある。

あの夏、私は父に「死んでくれ」と思っていた。

声に出したわけではない。行動に移したわけでもない。しかし、父が歩いている姿を見ながら「転倒してくれ」と念じるようになっていた。転んで骨折すれば、入院することになる。入院すれば、この生活から解放される。そんなことを、ごく普通に考えていた。

「夏を越せない」と宣告された末期がんは、どうなったのか。末期がんと言われたのに、こんなに元気なのはおかしい。そんなことまで思うようになっていた。

今振り返ると、なんて恐ろしいことを考えていたのかと思う。しかしあのときは、それがごく自然な感覚だった。自分の親に対してそんなことを思う息子は、ほとんどいないだろう。それでも私は、そう思っていた。

    *

ショートステイから父が戻ってきて3日もすると、私の中のイライラは最高潮に達していた。

そもそも父をコントロールしようとしていたことが、間違いだったのだと今はわかる。しかし当時の私は、父のペースに合わせるのではなく、私のペースに合わせさせようとしていた。食事の時間、睡眠の時間、トイレのタイミング。すべてを私が決めたスケジュールに収めようとした。

結果として、父の言動は不穏になっていった。売り言葉に買い言葉で、口論が絶えなくなった。父への怒りがこみ上げ、さらに悪循環に陥っていった。

悪循環に陥っていることは、自分でもわかっていた。しかしどうすればいいのか、まったくわからなかった。なるようにしかならない状態が続いた。

そして、私が一生忘れることのできない夜が来た。

    *

その日は、夕食の時間からすでに空気がおかしかった。

父が「ご飯がまずい」と言い出した。私も反論した。父から暴言が飛んできた。認知症だとわかっていても、自分自身のイライラが限界を超えていたため、つい反応してしまった。

就寝前、父と口論になった。どんなやり取りがあってそうなったのか、今でも思い出せない。言い争いがピークに達したとき、父は枕元にあったシェーバーを私に投げつけてきた。それは私の顎に直撃し、激痛が走った。

私は逆上した。頭の中が真っ白になった。

寝ている父の上に馬乗りになり、左手で胸ぐらをつかんだ。右手の拳を振り上げた。

殴ろうとした瞬間、ふっと我に返った。

父の表情は怒りに満ちていた。その目は冷たく、じっと私をにらみつけていた。

私は怖くなった。父がではない。自分が、こんなことをしてしまったことが。

殴らなかったとはいえ、認知症の父の胸ぐらをつかみ、拳を振り上げたのだ。当時の私は介護の専門職であり、介護事業所の経営者でもあった。しかしその瞬間の私は、介護のプロではなかった。ただの、追い詰められた家族だった。

    *

私は、たまたま父を虐待しなかっただけだ。

あのときの精神状態は、虐待や介護殺人を犯してしまった人たちと、何ら変わらなかったはずだ。もちろん、その行為を正当化するつもりはない。しかし、あの瞬間に我に返らなければと思うと、今でも恐ろしくなる。

家族と離れ、仕事にも行けず、「あんたのために来てやっているのに」という気持ちが積み重なっていた。睡眠も、食事も、自分の時間も、すべてが削られていた。イライラに満ちた言葉の暴力を、私は日常的に父に向け続けていた。「早くして」「いい加減にしてくれ」。そういう言葉が、口から自然と出るようになっていた。

この出来事を、今でも後悔している。おそらく、一生悔やむと思う。

この事件以降、高齢者虐待や介護殺人の報道を見るたびに、私は他人事として受け取れなくなった。加害者を責める気持ちがなくなったわけではない。しかし、あの夜の自分と重なる部分を感じずにはいられない。追い詰められた人間の心が、どこへ向かうかを、私は自分の体で知ってしまったからだ。

    *

介護をしている家族が孤立するとき、その孤立は静かに進む。

最初は「なんとかなる」と思っている。周囲に助けを求めることに、抵抗がある。専門職であれば、なおさらだ。自分で判断できる、自分でできると思ってしまう。

しかし身体の疲労と精神的な消耗は、別物だ。技術や知識があっても、感情はすり減っていく。それは止められない。

私が二人きりの生活の中で感じていたのは、出口のない閉塞感だった。どこにも相談できない、誰にも頼れない、この状況はいつまで続くのか、先が見えない。そういう感覚が、じわじわと積み重なっていた。

仕事としての介護は普通にできていた。しかし家族としての介護は、ぐだぐだだった。その差がなぜ生まれるのかを、当時の私はうまく言語化できなかった。今ならわかる。仕事の現場では、自分の感情を切り離すことができる。しかし家族相手では、それができない。過去の関係が、怒りや恨みや悲しさが、介護の場面に流れ込んでくる。

父と私の間には、長い溝があった。その溝が、あの夜、最も深く口を開けた。

    *

事件から数日後、妻と息子が実家に泊まりに来た。

父は孫に会えることを、心から喜んだ。そしてその夜、孫が突然発熱した。もともと熱性けいれんを起こしやすかったため、救急病院に電話すると「連れてきてください」と言われた。

父も一緒に車で病院へ向かったが、院内に連れて行くわけにはいかなかった。「車の中で待っていて」と父に伝え、シートベルトを外させないよう鍵をかけ、息子を抱いて病院へ入った。

父にとっては身体拘束に近い行為だった。しかしこのときは、どうしようもなかった。診察は妻に任せ、15分後に車へ戻ると、父は助手席でじっと病院の入口を見つめていた。

「どうだった?」と父に聞かれ、「これから診察だからもう少しかかる」と答えると、「お前も付いててやれよ」と返ってきた。父はずっと、孫のことを心配していた。

約1時間後、薬を受け取って車に戻った。その間、父はひと言も文句を言わなかった。孫のことだけを案じていた。

翌日、昨夜の出来事が嘘のように息子は元気になり、父とまた仲良く遊んだ。

この出来事がきっかけで、私は少しずつ冷静さを取り戻していった。そして父も、少しずつ自分のペースを取り戻していった。

    *

平成17年8月、家の中でトイレがどこにあるのかわからなくなることが増えてきた。

父は私に聞こうとはしなかった。狭いマンションの中を、私の目の届く範囲でうろうろしながらトイレを探した。時にはトイレの前まで来ているのに、まだ探し続けていることもあった。そんなときは、私がそっと誘導する。「ああ、ここにあったか。ありがとう」と言って、父は用を足した。

日常生活のさまざまなことが、ゆっくりとわからなくなっていく。昨年の今頃には考えられなかったことだった。これから記憶が完全に失われてしまったとき、どうなってしまうのか。その不安は、拭えなかった。

お盆の頃、また妻と息子が泊まりに来た。そのとき、父と息子の間に変化が生じていた。息子が、父に対してなんとなく距離を置くようになっていた。父の状態があまり良くなく、一緒に遊ぶ時間が減っていたこと、認知症の症状に対して子どもなりの違和感を覚えたのかもしれなかった。

父にとって、孫と遊ぶことは唯一の楽しみだった。何かできることはないかといろいろ試してみた。孫が使っている3歳児用の工作を渡してみたが、時間をかけてもできなかった。子ども用の40ピースのパズルも、やはりできなかった。息子と一緒にやらせてみても、うまくいかなかった。

このことを認知症専門医に相談すると、「そういうことをさせると逆にイライラするから、あまり強制しない方がいい」とアドバイスをもらった。

    *

妻と息子が帰り、父と二人の生活が再開したある日、父から思いがけない言葉が出た。

「釣りに行きたい」

若い頃から、アユのシーズンになると毎週のように川へ出かけていた父。「ころがし」専門だった父が、釣りの仕掛けを作りたいと言い始めた。

私は「釣りに行くなら仕掛けを作らなきゃ」と言った。父は「じゃあ材料を買いに行こう」と言う。「どうせ作れないだろう」と思いながらも、「じゃあとりあえず行こうか」と応じた。

店に着くと、父は何かを探し始めた。妄想があるときの父とは違い、表情が少し明るくなっていた。「何が必要?」と聞くと、「針と、糸と、おもり」と言いながら店内をきょろきょろと見回した。陳列棚まで一緒に行き、「どれにする?」と聞くと、父はブツブツ言いながら「これと、これと、これ」と選び出した。

家に帰り、テーブルの上に材料を置いた。「作れないだろうな」と思いながらも「作ってみて」と言うと、父は私の存在など意に介さず、黙々と作り始めた。

1時間ほど経って「できた?」と聞くと、父はニコニコしながら「できた!」と言って見せてくれた。そこには、握力が低下しているため結び方は甘いものの、ちゃんとした釣りの仕掛けが出来上がっていた。

「すごい!」と私が絶句していると、父はワクワクした表情で「いつ行く?」と弾んだ声で返してきた。

結局、その後に入院してしまったため、その願いを叶えてあげることはできなかった。しかし認知症になってからも、体で覚えていた父のアユ釣りの経験は、物を作り出す喜びや、出かけていく意欲、楽しさを呼び起こしてくれた。アユ釣りは、父にとって人生の大切なキーワードだったのだ。

あの夜、拳を振り上げた私と、仕掛けを完成させて嬉しそうに笑った父。その両方が、この夏の中にある。

介護は、きれいな話だけでは語れない。限界を超えた人間が、どこへ追い込まれるか。その現実を、私は自分の体で知った。同時に、追い詰められた時間の中にも、父の笑顔があったことを、私は忘れない。

どちらも、本当のことだ。