第3章 介護の始まり

一枚の紙が、テーブルの上に置かれていた。

 

要介護認定申請書。介護保険サービスを利用するために必要な、最初の書類だ。父の名前を書く欄に、私はペンを走らせた。父の生年月日、住所、現在の状態。一つひとつの項目を埋めながら、私はどこかまだ現実感を持てないでいた。

 

介護の仕事をしている。制度のことも、手続きのことも、人より詳しいはずだった。それなのに、自分の父親のための申請書を書くとき、手が少し重くなった。「知っていること」と「自分のこととして向き合うこと」は、まったく別のことだと、そのとき初めて気づいた。

 

    *

 

平成14年5月、家族で話し合い、介護保険サービスを利用することになった。

 

きっかけは、母の疲弊だった。散歩に付き合うことが、母にとって負担になり始めていた。

 

「散歩に行ってきたら」と促す母に、父は反発する。それが口論に発展し、喧嘩が絶えなくなっていた。父は外に出たくない。母は外に出てほしい。その小さなすれ違いが、毎日繰り返されていた。

 

要介護認定申請書を窓口に提出し、1週間後に認定調査が実施された。調査員が自宅を訪問し、父の日常動作や状態を確認する。申請から1か月後、結果が出た。「要支援」。最も軽い区分だった。

 

認定結果が出るまでの1か月間、父の状態が比較的軽かったこともあり、主介護者は母だった。買い物、食事、散歩の付き添い。日常のあちこちに、少しずつ手助けが必要になってきていた。しかしそれは、まだ「手伝い」の範囲に見えた。「介護」という言葉の重さとは、少し距離があった。

 

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認定結果が出ると、次はケアマネジャーを探す必要があった。

 

ケアマネジャーとは、要介護者の状態や希望をもとに介護サービスの計画を立て、各サービスとの調整を行う専門職だ。介護の世界では「司令塔」とも呼ばれる。どのサービスを、いつ、どのくらい使うか。その全体像を設計するのが、ケアマネジャーの役割だった。

 

申請の際に窓口で受け取っていた地域のケアマネジャーリストをもとに、私は自宅から近すぎず遠すぎない場所にある居宅介護支援事業所を3か所選び、順番に電話をかけた。

 

確認したのは、三つのことだった。

 

まず、新しいケアプランを担当できる空きがあるかどうか。次に、父の現在の状態を伝えたうえで、どんなサービスが考えられるかを聞いた。そして最後に、電話口での会話の様子を見た。相手のペースでゆっくり話してくれるか。こちらの話をきちんと聞いてくれるか。父との相性がよさそうかどうか。

 

介護の仕事をしてきた私は、ケアマネジャーの質が介護生活の全体を左右することを知っていた。自社のサービスを優先して組み込もうとするケアマネジャーや、家族の言いなりになるだけで本人の意思を汲み取れないケアマネジャーを選んでしまうと、あとで苦労が倍になる。電話一本のやり取りでも、その人の姿勢はにじみ出る。

 

3か所の中から1か所を選び、自宅に来てもらった。ケアマネジャーが自宅を訪問すると、父の日常の様子、身体の状況、生活上で困っていることなどを丁寧に聞き取っていく。そのやり取りの中で作られた父のケアプランには、父自身の言葉が記されていた。

 

「好きな釣りや庭木の手入れができなくなり、どうしてこんな体になってしまったのかと情けなくなる。せめて体調が良いときは、散歩でもして気分転換を図りたい」

 

父がそんなことを思っていたとは、知らなかった。ケアプランという書類を通じて、私は初めて父の内側の言葉に触れた気がした。

 

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ケアプランに立てられた目標は、「閉じこもりがちで筋力低下があり、外出をして筋力アップを図る」というものだった。

 

今になって振り返ると、この目標には「魔法の言葉」が欠けていた、と私は思う。

 

人が動くとき、周りに言われてしぶしぶやるのと、自発的にやるのとでは、結果がまるで違う。「筋力アップのために外出する」という目標は、理屈としては正しい。しかしそれは、父の心を動かす言葉ではなかった。

 

当時の私が父に言えた言葉は、「これ以上悪くなって、ずっと家で過ごすことになるのは嫌だろう」というアプローチだった。父は「嫌だ」と答え、「じゃあ、ずっと歩けるように頑張ろう」と私が続けた。

 

しかし今なら、もっと違う言葉をかけたと思う。「孫の顔を見に、私の家まで来るために頑張ろう」と。なぜなら、そちらのほうが楽しみが生まれるからだ。「こうならないために」ではなく、「こうなるために」。目標の向きが、人の心への刺さり方を変える。

 

それに気づいたのは、ずっとあとのことだった。

 

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デイサービスの見学にも、一緒に行った。

 

デイサービスとは、日中に施設へ通い、食事や入浴、機能訓練などのサービスを受ける通所介護のことだ。自宅にこもりがちな高齢者が外に出る機会を作り、心身の機能を維持するための場として位置づけられている。

 

父の答えは、一言だった。「行きたくない」。

 

理由を聞くと、「なんで、いい年してあんなことをやらなきゃならないんだ」と言った。

 

その言葉に、私は内心「ごもっとも」と思った。デイサービスで行われているレクリエーションや機能訓練が、すべての高齢者にとって魅力的なわけではない。プライドのある人間にとって、それが屈辱的に映ることがある。父はそういう人間だった。

 

しかし同時に、父の体は確実に弱っていた。散歩に付き合う母の負担は増し、口論は続いていた。デイサービスに行ってほしいという気持ちは、家族として本音だった。

 

父の意思と、家族の現実。その間で、私は最初の板挟みを経験した。

 

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この頃から、私の中に「もしかしたら認知症かもしれない」という疑念が芽生え始めていた。

ただ、確証はなかった。そして、「まさか認知症なんて」という気持ちが、その疑念を押しつぶしていた。認めたくなかったのだ。

 

しかし今振り返ると、兆候はすでに各所に現れていた。意欲の低下、ふらつき、うつ傾向、睡眠の乱れ、繰り返される同じ話。それらがレビー小体型認知症の症状と重なることに、当時の私は気づいていなかった。いや、気づかないようにしていた。

 

父のかかりつけ医は大学病院の医師だった。その医師が書いた意見書には「認知症なし」と記載されていた。専門医がそう言うのなら、そうなのだろうと思うしかなかった。医師の言葉が、私の都合のいい言い訳になっていた部分もあったかもしれない。

 

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平成15年3月、ケアマネジャーの経過記録には、父のこの頃の様子が記されていた。

 

動作に制限が生じ、思うように行動できないことへのいらだち。意欲の低下と行動範囲の縮小。一人での外出は転倒の危険があるにもかかわらず、本人はそれを聞き入れない。身だしなみへの関心も薄れてきている。

 

そして記録にはこうもあった。体調の良いときには、妻と口論してでもパチンコへ出かけていく気力が残っている。その気力と、孫との交流だけが、この時期の父を支えていた、と。

 

ケアマネジャーの目を通して描かれた父の姿は、私が日常の中で断片的に見ていた父の様子を、一つの輪郭としてつなぎ合わせてくれた。第三者の目は、時に家族より多くを見ている。

 

足の運びが悪くなっていても、転倒の危険があっても、父は駅まで歩いていた。大人の足で7分ほどの道を、父はその倍以上の時間をかけて歩いていた。気力だけで体を動かしていたのだと、その記録を読んで初めて思った。

 

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平成15年9月、要介護1の認定がおりた。

 

食欲が落ちてきた。これまでできていたことが、少しずつできなくなってきた。箸で魚の身をほぐすことができなくなった。おそらく、ほぐし方そのものを忘れてしまったのだと思う。できなくなったのではなく、やり方を忘れた。その違いは、当時の私には見えていなかったが、今なら分かる。それは認知症の症状の一つだった。

 

入浴にも支障が出てきた。一人では浴槽に入れなくなっていた。浴槽のまたぎが難しくなったこともあるが、入浴の手順を忘れてしまい、どうすれば良いのかわからなくなっていたのだと、今は思う。実際、その1年後には介助者の指示がなければ入浴できなくなっていた。

 

できないことが増えるたびに、父のいらだちは日常的になった。そのいらだちが母への当たり散らしになり、喧嘩につながる。その悪循環が、家庭の空気を重くしていった。

 

こうした状況を受け、訪問介護サービスによる入浴介助を開始した。ヘルパーが自宅を訪問し、入浴を手伝う。父のヘルパーへの抵抗は意外なほど少なかった。むしろ、お風呂に入れることの喜びのほうが大きかったようだった。

 

歩けなくなることへの対策として、通所リハビリテーションも勧めてみた。こちらは、完全に拒否された。

 

この頃、私はまだ父の認知症を認めたくなかった。認知症に対して、家族として具体的な行動を起こせないでいた。知識はある。仕事では認知症の利用者と日々向き合っている。それでも、自分の父に対しては、専門家としての目が働かなかった。

 

家族であることが、専門家としての目を曇らせていた。

 

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介護保険制度とは何か、と改めて考えてみる。

 

必要なサービスを申請し、認定を受け、ケアマネジャーと相談してプランを作り、事業者と契約してサービスを利用する。それが制度の流れだ。

 

しかし制度は、手続きを整えることはできても、家族の感情を整えることはできない。父の状態を「認めたくない」という気持ちを、申請書の提出が消してくれるわけではない。ケアマネジャーが計画を立てても、本人が「行きたくない」と言えば、サービスは宙に浮く。

 

制度の外側に、もっと大きな現実がある。

 

父が「好きな釣りができなくなった」と感じている現実。母が「散歩に付き合うことが負担になっている」現実。私が「認知症かもしれない」と思いながら、その事実から目をそらしている現実。

 

介護保険は、それらすべてに応えてくれるものではない。制度はあくまで道具だ。使う人間の側が、どう向き合うかが問われる。

 

私はこの時期、制度の使い方は知っていたが、父とどう向き合うかを知らなかった。いや、知ろうとしていなかったのかもしれない。

 

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第3章で語ってきたこの時期は、介護が「始まった」時期だ。しかし今振り返ると、それは介護の始まりであると同時に、後悔の積み重ねが始まった時期でもあった。

 

「魔法の言葉」を持てなかったこと。認知症の疑いから目をそらし続けたこと。父が何を感じていたかを、ケアプランという書類を通じて初めて知ったこと。

 

ケアプランに書かれていた父の言葉が、今でも頭から離れない。

 

「せめて体調が良いときは、散歩でもして気分転換を図りたい」

 

それを、私は父の口から直接聞いたのではない。紙の上で読んだのだ。父と向き合って話し合えていたなら、もっと別のアプローチができたかもしれない。

 

しかし当時の私には、それができなかった。溝のある家で育ち、長い沈黙を積み重ねてきた父と息子に、突然「向き合う」ことは難しかった。

 

介護は、それまでの関係の延長線上に始まる。そして私たちの関係の延長線上には、深い溝があった。

 

その溝は、これから先の介護の日々を、さらに複雑なものにしていく。