第5章 崩れていく日常

「見知らぬ男と女が家に入ってきた」

 

母からその話を聞いたのは、平成16年11月のことだった。父が1週間の入院から退院した直後のことだ。肺炎による入院だったが、帰宅した父の様子は入院前とは明らかに違っていた。妄想の内容が、具体的になっていた。

 

「男と子どもが家に入ってきた」 「ヘルパーがたばこを盗んだ」 「妻が男と浮気している」

 

母が否定する。しかし父は「この目で見たから間違いない」と言い張る。私が「いつの話?」と確認すると、父は「ここに引っ越す前に2〜3回見た」と答えた。

 

「引っ越したのはいつ?」と聞くと、「2〜3か月前」と返ってきた。

 

父と母が、そのマンションに住み始めてから38年近くが経っていた。

 

    *

 

入院は、認知症の人にとって大きな試練になることがある。

 

慣れた環境から切り離され、病院という見知らぬ場所で過ごす。規則正しい日常が崩れ、夜と昼の感覚が乱れる。認知症の症状が、その期間中に一段階進んでしまうことは珍しくない。

 

今回の入院中、父は自分が病院にいるという認識を持てなくなっていた。病院内を歩き回り、自分の部屋がわからなくなり、他の患者の部屋に入ってしまい、トラブルになった。病院には認知症であることを事前に伝えてあったが、担当の看護師からちょっとしたクレームが届いた。

 

退院後、父がまず最初にしたことは、マンションの下にある自動販売機でたばこを買い、10分間吸うことだった。これまで何度か禁煙を試みたが、一度として成功したことがなかった。病院という場所から解放されたその足で、たばこに向かった父の姿に、私は何も言えなかった。

 

    *

 

この頃の父の日常は、静かに、しかし確実に崩れていた。

 

夜や早朝に外に出ようとすることが増えた。家の中を歩き回ることも多くなった。母も父も、まとまった睡眠が取れなくなっていた。疲弊が、日常の底に積もっていった。

 

酸素飽和度の低下により、在宅酸素が始まった。鼻にチューブをつけ、ベッド横の機械から酸素を送り込む。酸素なしでは、歩行できる距離は20メートルが限界だった。父の行動範囲は、さらに狭まっていった。

 

作り話が増えたのも、この時期だった。相手に合わせようとして懸命に話すのだが、結果として本人が経験していない話になってしまう。悪意があるわけではない。記憶の空白を、脳が別の何かで埋めようとする。そういう症状だった。しかし受け取る側には、嘘をつかれているように聞こえることもある。

 

父は、いらだちを抱えていた。認知症の専門医に幻覚や妄想の対処法を聞くと、「部屋を明るくする」「冷たいタオルや蒸しタオルで顔を拭いて目を覚まさせる」という指示をもらった。試してみたが、顔を拭くという行為を受け入れてもらうまでに時間がかかった。

 

    *

 

そんな状況の中で、機嫌の良い日を見計らって、私は父に聞いてみた。

 

「デイサービスに行ってみない?」

 

これまで何度もチャレンジし、そのたびに完全拒否されてきた問いかけだった。今回も期待はしていなかった。何の気なしに口にしてみた。

 

ところが、父は「行く」と言った。

心境の変化があったのか、あるいはデイサービスというものがどんな場所かわからなくなっていて、勧められるままに答えてしまったのか、理由は定かではない。しかし「行く」という言葉が出た。私は担当ケアマネジャーにすぐ報告し、手配を依頼した。

 

父は在宅酸素を使用していたため、ほとんどのデイサービスで利用を断られた。受け入れてくれる場所は、1か所だけだった。選択の余地はなかった。そこに決まった。

 

デイサービスの担当者が自宅に来て父と面談し、翌週から利用開始となった。

 

    *

 

初日の朝、私は早朝から実家へ向かった。

 

途中で「行きたくない」と言い出すことを予想していたからだ。案の定、ああでもない、こうでもないと言い始めた。私は孫の話を出した。

 

「孫と遊びに行くためには体力をつけなきゃ」

 

その言葉が、父を動かした。

 

多くのデイサービス利用者に共通して言えることだが、通い始めるきっかけは本人の意思ではなく、家族の意向によることが多い。だから父の場合も、私が「行かせた」ことになる。それが正しかったのかどうか、今でも簡単には言えない。

 

ただ、行ってみたら意外と楽しかった、と父は帰宅後に言っていた。初回ということもあり、スタッフが必要以上に気を使って話しかけてくれたようで、内容よりもスタッフと会話ができたこと自体が、父には嬉しかったようだ。

 

それからしばらく、行く前にああでもない、こうでもないと言いながらも、父は週2回デイサービスに通うようになった。

 

回数を重ねるうちに、父の中で行き先の意味が変わっていった。デイサービスではなく、以前勤めていた新聞社に行く感覚になっていったようだった。平日の朝から通う場所は、父にとって「仕事に行く場所」になっていた。

 

    *

 

2週間後、風邪をひいてデイサービスを2回休んだ。

 

回復して再び行けるようになった朝、父はこう言った。

 

「2日も会社を休んじゃったから、みんなに合わせる顔がない。もう行けない」

 

私はすぐにデイサービスに電話し、今朝のやり取りをそのまま伝えた。担当者も了解し、施設内ではそのやり取りの延長として会話を続けてくれることになった。

 

父には、「俺から新聞社に電話して、風邪で2日休んだけど今日から行けるって伝えておくよ」と言った。

 

父は「そうか、悪いな。そう伝えておいてもらえると助かるよ」と答えた。

 

その日、デイサービスから帰ってきた父は、母にこう言った。

 

「あいつがちゃんと言っておいてくれたから助かったよ」

 

父の世界に合わせること。否定せず、その現実の中で一緒に動くこと。それが、この場面でできる唯一の対応だった。正しいかどうかではなく、父にとって安心できるかどうか。その視点に、私は少しずつ近づいていた。

 

    *

 

平成16年11月、要介護2のまま、父は肺炎で1週間入院した。

 

今回の入院期間中、母はほぼ毎日見舞いに行った。本来は家でのんびり過ごすつもりだったが、病院内でのトラブルが続き、その計画は消えた。父は自分が病院にいるという認識を持てなくなっており、病院内を歩き回っては他の患者の部屋に入り込み、トラブルになった。

 

入院中の父への対応として、身体拘束の同意書が病室のテーブルに置かれていたこともあった。点滴を抜かないよう、手袋をするというものだった。

 

ある夜、父はトイレに行こうとして転倒し、顔面に大きなあざを作った。翌日たまたま病院へ行くと、家族への報告がないまま、父の手足が縛られていた。

 

私はその光景を見たとき、言葉を失った。

 

    *

 

退院後、妄想はさらにひどくなっていた。

 

デイサービスへの意欲にも、変化が出てきた。これまで収まっていた怒りっぽさが再び現れ、週2回の通所さえ「行きたくない」と言い出した。理由を聞くと、デイサービスで行われる機能訓練ができなくなっていて、嫌になってしまったようだった。以前は自分の意思でできていたことが少なくなり、失敗を重ねることでいらだちが募っていた。

 

私は父にこう言った。

「デイサービスに行って運動して元気になったら、釣りに行こう」

 

その言葉は、父の顔を明るくさせた。父はそれを楽しみにしながら、デイサービスへ向かった。

 

しかし、釣りに行くつもりはなかった。父の状態を考えると、行けるはずがないと思っていた。それでもデイサービスに行ってもらうために、そう言った。

 

後になって、私はそのことを「ひどい」と思った。しかし当時の私には、他に言葉がなかった。追い詰められた家族が使える言葉の選択肢は、思っているより少ない。

 

    *

平成17年2月、定期受診の際に血痰が出た。即日入院となった。

 

診断は、肺がんだった。

 

肺気腫と慢性閉塞性肺疾患で肺はすでに傷んでいたが、さらに肺がんとは。しかも末期と診断され、「夏は越せない」と宣告された。本当に驚いた。

 

1か月の入院中、退院後の生活をどうするかについて、母やケアマネジャーと話し合った。体調次第ではあるが、とりあえず現状維持という結論に落ち着いた。

 

入院中、担当医から抗がん剤の使用を勧められた。80歳で認知症を抱える父に、抗がん剤。その組み合わせを想像すると、父にとってつらいだけではないかと思えた。さらに、抗がん剤を使うには父にがんを告知する必要があるというのだ。

 

「認知症の人に?」

 

私にはその判断が理解できなかった。母の気持ちを確認したうえで、抗がん剤の使用は断った。その後も繰り返し勧められたことが、私のドクターへの不信をさらに深めた。

 

さらに追い打ちをかけるように、病院内でトラブルが発生した。仕事の合間に病院へ行くと、看護師から次々と苦情を聞かされた。排泄時に尿量を測って記録してほしいと伝えてあるのに記録がない。点滴を抜かないよう言っているのに抜いてしまう。隣の女性部屋に入ってしまう。

 

入院当日に認知症であることを伝えてあった。それにもかかわらず、こうした苦情を聞かされるとは思っていなかった。

 

病室のテーブルには、身体拘束の同意書が置かれていた。そして数日後には、家族への事前報告なく、父の手足が縛られていた。

崩れていくのは、父の日常だけではなかった。父を取り巻く環境そのものが、少しずつ、ほころびを広げていった。

 

    *

 

この章で語ってきた時期は、様々なことが同時に崩れていった時期だった。

 

睡眠が崩れた。食事が崩れた。妄想が激しくなり、母との関係が崩れた。デイサービスへの意欲が崩れた。そして医療の現場では、父の尊厳が脅かされる場面があった。

 

介護をしている家族の多くが、こういう時期を経験すると思う。一つの問題が解決する前に、次の問題が重なる。対応する間もなく状況が変わる。正しい選択肢がどこにあるのか、見えなくなっていく。

 

そういうとき、家族はどうすればいいのか。

 

私には、その答えが当時見えていなかった。ただ、目の前のことを一つひとつ対処するだけで精いっぱいだった。先を見通す余裕は、どこにもなかった。

 

「夏は越せない」と言われた父は、しかしその夏を越えようとしていた。そしてその夏に、私たちは最も過酷な時間を迎えることになる。