第9章 別れの時間

病院側から呼び出しがかかったのは、平成17年11月のことだった。

転院してくださいという要請だった。

入院から2か月が経った頃だった。「そろそろ3か月経つので」という言葉が、担当者の口から当然のように出てきた。法律で決まっているわけではない。しかし急性期病院では長期入院ができないという理屈で、3か月という区切りが慣行のように扱われていた。

転院先を探すため、院内のソーシャルワーカーのもとへ行った。候補となったすべての病院で、同じことを言われた。

「MRSAがあるなら個室です」

MRSAとは、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌と呼ばれる細菌で、通常の抗生物質が効きにくい。健常者にとってはそれほど脅威ではないが、高齢者や免疫力の低下した人にとっては重篤な感染症へと発展する可能性がある。父は前回の入院中に院内感染でMRSAに感染しており、そのことが転院の大きな障壁になっていた。

個室となれば、差額ベッド代が発生する。月額にして25万円。

私は病院側に確認した。「転院先の差額ベッド代は、当然そちらで負担していただけるのですよね」と。

「それはできません」という回答が返ってきた。

この一言で、すべてが一変した。

院内感染させられ、3か月経ったから出て行けと言われ、さらに転院先の個室代を患者が払う。あまりの誠意のなさに、私は迷わずこう伝えた。

「院内感染はそちらの責任なのだから、転院先の差額ベッド代を払っていただけるなら、いつでも転院します」

その後、「ああでもない、こうでもない」と言われ続けたが、私の返事は一貫して同じだった。担当医のふんぞり返った態度は、今でも目に焼き付いている。

    *

この入院中に、もう一つ、見過ごせないことが起きた。

他の薬剤との兼ね合いを理由に、病院側からアリセプトの服用を中止すると告げられたのだ。

当時は脳梗塞の治療を優先するためだと思っていた。しかし今になって振り返ると、病院側の別の思惑が見え隠れしていたように感じる。確かめようもないことではあるが、その決定以降、父の状態が急速に落ち込んでいったことは事実だった。

様子を見に行くたびに、会話は少しずつ減っていった。

12月になると、あれほど愛していた孫の存在が、父の記憶から消えてしまった。

MRSAの感染もあり、息子を病室に連れて行くことができなかった。父は孫と1か月近く会えていなかった。せめて孫の記憶だけでも、できる限り長く残してあげたいと思い、息子が映っているビデオを見せるようにした。しかし、しばらくすると映像を見ても反応が薄くなっていった。

父の記憶の中から、孫が静かに消えていった。

    *

見舞いに行くたびに、父は私のことを主治医だと思うようになっていた。

「ああ先生、いつもすみません……」と、父は私に言う。

その言葉に合わせて話すと、孫のことはまだ覚えており、「この前、孫が来てくれた」「この前、孫と一緒に遊んだ」といった話を聞かせてくれることがあった。実際には1か月近く会えていないのに、父の記憶の中では孫がそこにいた。

父が何を思っていたかはわからない。しかし父の口から孫の話が出るたびに、私は複雑な気持ちになった。現実とは違う記憶の中で、父は孫と過ごしていた。その記憶を、私は否定することができなかった。

病院との差額ベッド代をめぐる攻防は、八方ふさがりの状況の中で、結局このまま病院にいるしか方法がないという結論に落ち着いた。誰にとっても満足のいく解決策は、どこにもなかった。

父は入院していても施設にいても、「早く自宅に帰りたい」と言い続けていた。自宅以外は自分の居場所ではないと、感じていたのだと思う。だから、できるなら自宅で最期を迎えさせてあげたいと、ずっと考えていた。しかし、その思いを叶えるには、仕事や家族など、多くの犠牲を払わなければならなかった。できれば両立を図りたかったが、それは叶わなかった。

    *

平成18年3月、病院側から呼び出しがかかった。

ドクターからの説明だった。「口からご飯が食べられなくなってきており、栄養状態が悪化しています。栄養状態を改善するには胃ろうをしなければなりません」

胃ろう。おなかに穴を開け、チューブを胃に直接通して栄養剤を送り込む処置だ。仕事上、胃ろうをしている利用者を何人か知っていたので、どのようなものかはわかっていた。

「もし私なら望まない」

だから悩んだ。はたして父は胃ろうを望むだろうか。

しかし確認しようがなかった。今の父に胃ろうの説明をしたとしても、父はもう答えを出せる状態ではなかった。私が決めるしかなかった。

そんなとき、ドクターはこう言った。

「胃ろうをしなければ死にますよ」

淡々と、ソフトな口調で言われた。こう言われたら、「お願いします」と言うしかない。

こんな決め台詞を言うドクターよりも、そういう状況を想定してこなかった自分を責めた。同時に、こうしてほしいと父が決めていなかったことも、責めたくなった。でも多くの人は、そんな状態を想定して生きていない。仕方がないことだった。

胃ろうの手術はあっという間に終わった。その日から、父は口から食べ物を食べなくなった。

食べないのに、生きている。

父は生きていた。しかし、ほとんどのことに反応がなくなっていた。話しかけても返事をしない。テレビをつけても見ようとしない。食事を楽しむこともない。会話をすることもない。笑顔もない。

ただ、目を開けて天井をじっと見つめているか、眠っているか、そのどちらかだった。唯一、たんの吸引と褥瘡の処置のときだけは痛みを感じるのだろう。顔をしかめ、うめき声をあげた。

「生きるって、何だ?」

その問いが、病室に立つたびに私の中に浮かんだ。

    *

そんなある日、病室の父のベッドの横に立ち、携帯電話で録音した孫のしゃべっている声や笑い声を聞かせてあげた。

すると、孫の笑い声のあと、一瞬、父の口元が緩んだ。

後にも先にも、この反応は一度きりだった。それから病院に行くたびに、私は必ずその音声を聞かせ続けた。

父が何を思ったのかはわからない。しかしこんな状態になっても、孫のことだけは忘れていなかった。認知症になっても、人の感情はちゃんと存在している。そのことが、私にはたまらなくうれしかった。

    *

平成18年6月、肺炎をこじらせた。

亡くなる3週間前から、呼吸が苦しそうになった。「ぜいぜい」と音を立てながら、全身で呼吸しているように見えた。急激に体調が悪化し、ドクターからは「この1週間が山です。覚悟しておいてください」と言われた。

そして「延命処置をどうしますか?」と聞かれた。

この状態を見ていたら、正直なところ、すぐにでも楽にしてあげてほしいと思った。だから「しなくていいです」と答えた。その後も2回、同じことを聞かれたが、そのたびに「しなくていいです」と答えた。

そんなことを何度もしつこく聞かないでほしかった。だが、このことが後になって、私を苦しめることになる。

一週間が過ぎ、その状態がさらに続いた。その間、母はほぼ毎日のように病院に通っていた。しかし私は逆に足が遠のいた。あの苦しそうな姿を見ていられなかったからだ。それでも行ったときは、必ず孫の声を聞かせ続けた。

    *

6月9日の夕方、仕事のあとに父の病室を訪ねた。

相変わらず、「ぜいぜい」と苦しそうに呼吸していた。いつものように孫の声を聞かせて、自宅に帰った。

父の生きている姿を見たのは、それが最後だった。

翌日の17時30分頃、携帯電話に病院から電話がかかってきた。

「急変しました。すぐに来てください」

急いで病院に向かった。まっすぐ病室へ向かった。

するとベッドの周りにあったはずの様々な医療機器はなく、薄暗い誰もいない病室で、父はベッドに横たわったままだった。

父は、家族に見守られることなく、一人で逝ってしまった。

しばらくしてドクターが病室にやってきて、亡くなったときの状況を話してくれた。

父の死亡時刻は、18時10分だった。

私が到着したのは、18時20分。

10分の差で、父を見送ることができなかった。

    *

この3週間で3回、ドクターに延命のことを聞かれ、すべて断ってきた。覚悟していたはずだった。

しかし、薄暗い病室で一人横たわっている父の姿を見たとき、初めて別の後悔を知った。

あれほど親子で話ができなかったのなら、せめて最後の瞬間だけはそばにいて見届けたかった。それが偽らざる気持ちだった。

延命を断ったことは、あの苦しそうな父の姿を見ていれば、当然の判断だったと今でも思う。しかし見送ることができなかった事実は、判断の正しさとは別のところに、静かに残り続けた。

延命を断ったことへの後悔ではない。10分、間に合わなかったことへの後悔だ。その二つは、似ているようで、まったく別のものだった。

父とほとんど会話のないまま、父の「思い」も知らずに生きてきた。やがて認知症になり、父と二人で生活し、ほんの少しだけ溝を埋めることができた。しかしこんな状態になったとき、延命を決断する材料にはならなかった。介護の時も医療の時も、すべてが中途半端で終わってしまった。後悔だけが残った。

    *

父が亡くなったのは、6月10日だった。

誤嚥性肺炎だった。肺がん、肺気腫、慢性閉塞性肺疾患。長い年月をかけて傷んでいった肺が、最後に肺炎をこじらせた。

病室を出るとき、私は一度だけ振り返った。

薄暗い部屋の中に、父がいた。もう「ぜいぜい」という呼吸の音はしなかった。それだけは、よかったと思った。

川遊びの日、父は私の横に立っていた。転びそうになるたびに、触れるか触れないかの距離で手を伸ばしていた。その背中を、私は幼い頃から見ていた。

最後の病室でも、父は一人だった。

私が間に合わなかった。その事実を、私は生涯持ち続けることになった。しかし同時に、孫の笑い声に一瞬だけ緩んだ父の口元も、一緒に持ち続けていく。

どちらも、父が残してくれたものだ。