第10章 息子へ

父が逝ってから、私はある文章を書いた。

息子宛の手紙だった。内容は三つ。「認知症になった時のこと」「延命治療が必要になった時のこと」そして「介護が必要になった時のこと」。

父の介護を通じて、私が後悔してきた決断を、息子には繰り返してほしくなかった。ただそれだけの理由で、書いた。

この章では、その手紙の中身をそのまま記す。介護をしている家族に、あるいはこれから介護に向き合う人に、少しでも届くものがあればと思いながら。

    *

息子へ。

まず、認知症のことから書く。

もし未来の私が認知症になり、君の名前がわからなくなったら、その時点で私は長野県の安曇野周辺にあるグループホームに入れてほしい。できれば、面会には来ないでほしいと思っている。

この願いが正しいのか、間違っているのか、正直なところ私自身にもわからない。ただ、君の名前を呼べなくなるということは、私にとって「親であること」を失うことと同じくらい、つらいことだからだ。名前を呼べなくなったまま君と会い続けるよりも、静かに距離を取る方が、私にとっては救いになる気がしている。

君の名前がわからなくなった時、私はこれまでの人生を終え、「第3の人生」を生きるつもりだ。安曇野は、私が人生で一番好きな場所で、心がほどける場所でもある。あの山と川と空に囲まれて、誰の役にも立たなくてもいい、何者でもなくなってもいい、そんな時間を過ごしたいと思っている。

もちろん、認知症になったからといって、すべてを諦めるつもりはない。君や君の子どもたちの名前を、少しでも長く覚えていられるように、私は最後まで抵抗する。忘れてしまったら終わりではなく、忘れないように努力することも、私にとっては生きることの一部だ。

こう考えるようになったのは、君のおじいちゃんの介護をしていた時の経験があったからだ。あの時間は、私にとって、苦しさと同時に多くの気づきを与えてくれた。だからこそ、君には、私と同じ思いをしてほしくないと、心から思っている。

その代わり、私は元気なうちに、おじいちゃんの介護で学んだことを、できる限り君に伝えていくつもりだ。認知症とはどういうものなのか、家族はどう向き合えばいいのか、何ができて、何ができなくなるのか。だから、もし私が認知症になったとしても、必要以上に不安になることはない。

ただ、もしかしたら、こんなことを心配する必要すらない未来が来るかもしれない。いつか私は、安曇野に「私の親友しか入れない老人ホーム」を作りたいと思っている。気の合う仲間と一緒に、忘れることも、笑うことも、助け合うことも、すべて受け入れながら年を重ねていきたい。

もし私が認知症になり、判断力を失った時、きっと君が私の主な介護者になる。周囲の人たちは善意から、いろいろな助言をしてくるだろう。でも、私の生き方だけは、どんな状態になっても私自身が決めたい。そのために、この文章を書いている。そんな時は、この文章を周りの人に見せてほしい。そうすれば、私がどんな覚悟でこの選択を書いたのか、きっと伝わるはずだ。

君の名前を覚えているうちは、たくさん迷惑もかけるし、苦労もかけるかもしれない。それでも、どうかよろしく頼む。

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次に、延命のことを書く。

君が迷わずにすむように、ここにはっきり書いておく。基本的に、私はすべての延命治療を拒否してほしいと思っている。私は「生かされている命」ではなく、「自分の意思で生きている命」でありたいからだ。

特に胃ろうについては、はっきりした考えがある。もし胃ろうを行うことで、君ともう一度きちんと会話ができるほど回復する見込みがあるなら、それは構わない。でも、そうではないのなら、どうかしないでほしい。私は食べることが好きで、調理師資格まで取った人間だ。口から食べることができず、味を感じられないまま生き続けることは、私にとって「生きること」ではなく、「時間が続いているだけ」になってしまう。

私は、君のおじいちゃんの胃ろう手術に同意した。あの時、おじいちゃんは認知症で、私が決断するしかなかった。あの選択が正しかったのかどうか、今でもわからない。おじいちゃんが本当に何を望んでいたのか、聞くこともできなかった。だからこそ、認知症になる前に、親子でちゃんと話をしてこなかったことを、今でも深く後悔している。

もう一つ、どうしても忘れられない後悔がある。おじいちゃんが亡くなった時、私は10分の差で死に目に会えなかった。肺がんと肺気腫を患い、最後は肺炎で亡くなったが、最期の呼吸は本当に苦しそうだった。だから、これ以上苦しまないようにと、私は医師に「延命はしなくていい」と伝えた。それは間違いなく、あの時の私の本心だった。

でも、危篤の連絡を受けて病院に駆けつけ、ベッドの上で一人ぼっちで横たわっている姿を見たとき、私は初めて別の後悔を知った。あれほど親子で話ができなかったのなら、せめて最後の瞬間だけは、そばにいて見届けたかったと、心から思ったんだ。

だから、これは矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、もし私がどんなに苦しそうな状態になっても、君が来るまで、私はがんばって待つつもりでいる。君が来る前に逝ってしまうことだけは、どうしても避けたい。だから、君が来るまでは生かしておいてほしい。

正直に言えば、病院で死ぬのはあまり望んでいない。でも、それについては、もうわがままは言わない。どこで最期を迎えるかより、誰と、どんな気持ちでその時間を迎えるかの方が大事だと思っている。

まずは、こんな選択を君に託さなくてすむように、私は自分の体を大切にして生きるよ。君に決断を押し付けることが、私にとって一番つらいことだから。

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最後に、介護のことについて書く。これは、君に一番伝えたかったことかもしれない。

もし私が寝たきりになったとしても、どうか仕事を辞めるという選択はしないでほしい。親の介護は、どんな形であっても、いつか必ず終わる。けれど、君の人生と仕事は、その後もずっと続いていく。私は、君が介護のために自分の人生を削ってしまうことを、どうしても望まない。

私は、介護保険が始まる前から介護の仕事をしてきた。専門職として、要介護状態になった時に何を選び、どこに頼り、どう助けを借りるかは、ある程度わかっているつもりだ。だから、私の介護に関しては、君が一人で抱え込む必要はない。遠慮なく制度を使い、人の手を借りてほしい。それは、逃げではなく、正しい選択だ。

その時、君にはきっと家族がいるだろう。守るべき人がいて、続けるべき生活がある。だから、私のことでそれを犠牲にしてほしくない。君が仕事を続け、家庭を守り、笑って暮らしていることが、私にとって一番の安心だ。

私はこれまで、たくさんの家族を見てきた。理想的に見える家族もいれば、正直、こうはなりたくないと思う家族もあった。でも、一番応援したくなったのは、介護を受ける本人が「まだやりたいこと」を持っている家族だった。「孫に会いたい」「もう一度旅行に行きたい」「自分でトイレに行きたい」。そんな小さな目標でもいい。本人が「自分の人生を生きている」家族の家には、共通して穏やかな空気が流れていた。

だから私は、介護される側になっても、目標を持ち続けたいと思っている。できることは自分でやる。できなくなったことは、助けてもらう。その線引きを、自分でできるうちは自分でしていきたい。

そのために、私はできるだけ自宅で暮らせるように準備をしておく。施設に入ることが悪いわけではない。ただ、私にとっては、生活の延長として介護を受けられる場所が、自宅であってほしいというだけだ。

君には、私の介護を「背負って」ほしくない。「関わる」だけでいい。見守り、必要な時に判断をしてくれれば、それで十分だ。自分でできることは、最後まで自分でやらせてほしい。それが、私が介護を受ける側として、君にお願いしたい唯一のことだ。

    *

この手紙を書き終えて、私はしばらくそれを眺めていた。

父の介護を通して、ここに書いたすべての後悔が生まれた。父が認知症になる前に、こんな話を親子でできていたなら。胃ろうについて、延命について、介護離職について。そのどれか一つでも、父の意思を聞いておくことができていたなら。判断は、もう少し違うものになっていたかもしれない。

しかし父と私の間には、長い沈黙があった。川遊びの記憶から始まり、喧嘩と借金と家出の日々を経て、挨拶とプロ野球の話だけで成立する関係に落ち着いていた。その沈黙の先に、介護が来た。

親の介護は、ほとんどの場合、後悔するものだと思う。しかし今から親子が少しでも歩み寄ることができたなら、その後悔を減らすことはできるはずだ。医療も介護も、できることには限界がある。その限界の中で、本人の気持ちや周りの人の気持ちと向き合いながら、折り合いをつけていく。

親子が向き合って、そんな時間を少しでも持ってほしいと、心から願っている。

この手紙を書いてから、私自身の考え方やライフスタイルは大きく変わった。今の私が息子に伝えたいことは、正直かなり違っている。それでも、この手紙は書き直さないでいる。あの時、父の介護を通して私が何を考え、何に迷い、何を恐れていたかを、そのまま残しておくために。

これは、過去の私の記録であり、今の私がここまで来るために通ってきた道でもある。

    *

最後に、この物語を読んでいるあなたへ。

自分の介護と、親の介護は、実は一本の線でつながっている。そして、その歴史は形を変えながら繰り返されていく。

私は父の介護を通して、「親の介護は、自分の介護の予行演習なのだ」と強く感じるようになった。

介護される側の親の振る舞いも、介護をする側のあなたの姿も、次の世代である子どもや孫たちが、黙って見ている。どんな言葉を使い、どんな態度で向き合い、どんな関係を築いたかは、確実に受け継がれていく。

だからこそ、介護は「その人だけの問題」ではない。

それは、家族の歴史であり、生き方のバトンなのだと思っている。

父と私の間にあった溝は、最後まで完全には埋まらなかった。それでも、二人きりの夏の夜、釣りの仕掛けを完成させて嬉しそうに笑った父の顔を、私は忘れない。孫の笑い声に、一瞬だけ口元を緩めた父の顔も。

介護の中にある、そういう瞬間を。

どうか、見逃さないでほしい。